「良い授業」とは何か?

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今回は「良い授業」とはどのような授業なのか、ということについて考えてみたいと思います。

最初に断っておきますが、私は教育関係の分野を専門としています。

小学校教員、短大教員、大学教員と、校種は違えど、一応、教育に携わってきました。

職歴もたいして長くないのですが、教育について考えるという環境に身を置いてきたと思っています。

そんな私は、タイトルにもあるように「良い授業」について、これまで幾度となく考えたことがあります。

その結果、毎回たどり着く答えが、

「わからん」

ということです。

私の知識が足りていないのはもっともなのですが、「良い授業」とは何なのでしょうか。

教員の研究会、特に教科教育に関する研究会などに参加すると、「良い授業」という言葉を聞くことが多いのですが、何をもって「良い授業」としてるのでしょうか。

その人の主観?
子どもの様子?
環境設定の仕方?

突き詰めれば突き詰めるほどわからなくなります。

授業の規律が整っていて、教員の指示が通りやすく、子ども達が主体的に考え、自分達でめあてや目標を達成する。

はたから見たら、上記のような授業が「良い授業」でしょうか。

教員や大人から見ると、授業が進めやすいという点で、「良い授業」となるかもしれません。

ただ、上記のような授業の中で、子ども達が授業に興味、関心を持っているかというと、それは子ども達にしかわかりません。

ひねくれているかもしれませんが、純粋に授業に集中している子もいれば、周りに合わせて集中しているようにふるまっている子、大人にとっての「いい子」を演じている子など、内情は様々だと思うのです。

もちろん、学校という集団生活を行う場では、最低限の規律が必要となります。

それは社会を形成している人間であれば、多くの人が守るべき法につながってくるため、重要な概念です。

ただ、その規律に従い、教員の問いかけに正直に答える授業が「良い授業」とは、私には思えないのです。

多少規律を乱す子がいたり、自分勝手に発言する子がいたとしても、学級全体の子ども達が満足したり、楽しいと感じたりしていれば、それはそれで「良い授業」となり得るのかなとも感じるわけです。

しかし、個別授業であれば話は別なのですが、複数人を相手にする「授業」においては、学級の人数が増えれば増えるほど万人にとっての「良い授業」はあり得ないと感じています。

まあ、だからこそ、正解のない「授業」を追求する必要があるのですが、「良い授業」が何なのか、ということが分からなければ、何を追求すればよいのかわからないというものです。

引き出しを増やす

そこで、私なりに考えていることとしては、教員は授業における「引き出しを増やす」しかないと思っています。

良い授業が何なのかはわかりませんが、授業における引き出しが多ければ多いほど、あらゆる状況に対応できます。

引き出しとは、板書の仕方であったり、発問のタイミング、資料の出し方や演習へ入るタイミングなど、授業に関わる様々な「再現性のある」技能のことを指します。

学級全員が満足する授業など現実的には絵空事だと思っていますが、そこを目指す必要はあり、少しでも近づけるよう努力は必要だと思います。

そのため、子ども達のあらゆる状況に対応できるような授業の進め方を学び、絵空事に向かって努力続けるということが、ひいては「良い授業」に近づく唯一の方法なのではないかと思っています。
(当たり前ですが…)

庭で本を読む子ども

今回は「良い授業」について考えてみました。

ただ、授業とは「授業時間」単体だけで成り立つものではなく、日々の関わりを含めた子ども達との信頼関係によって成り立つものだと考えています。

これを含めるとますます「良い授業」の仕方が分からなくなりますが、漠然と「良い授業」を目指すのではなく、自分にできること、取り組めることを明確にして、感覚的なものではなく、再現性のある具体的なスキルアップに臨むということが、多くの子ども達の成長につながるのではないかと思っています。

ぜひ、「良い授業」に関するご意見、ご感想があればご教示ください。

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