今回は、学生には責任を負わせるべきだと思う理由についてお話ししたいと思います。
学生を救うことが当たり前となっている
現在、卒論指導の真っただ中ではありますが、最近ふと思うのは、「学生をいかにして救うか」という考えが染みついてしまっているなあ、ということです。
ここでいう「救う」とは、「単位を与える」という意味です。
卒論指導だけでなく、普段の授業においても、レポートの内容がひどかったり、授業への取り組みが良くなかったりする学生がいたとしても、何とか単位をあげられないかと考えてしまっています。
卒論指導においては、期日までに進めておくべき内容を進めてなかったり、期日通りに提出しなかったり(最終提出ではなく、ゼミ内の提出期限です)しますので、がみがみと口うるさく言わなければ論文の完成が見えてきません。
私の勤務校は「教員と学生の距離が近い」「面倒見が良い」ということを売りにしているFランと呼ばれる大学ですので、入学してくる学生の質は低いと言えます。
そのため、救済に救済を重ねてやっと卒業していくという学生が毎年一定数存在します。
(ただ、他の大学の教員に聞くと、どのようなレベルの大学においても、救済が必要な学生は一定数いるようです)
救済を考えるたびに、何か違うなあ、と感じている今日この頃です。
学生にはもっと責任を負わせるべき
大学生というのは、義務教育段階とは違い、法的にも「成人」とみなされます。
成人年齢が引き下げられましたので、尚更、大人として扱われる場面が増えました。
そういった背景もあり、学生という身分はありながらも、もっと学生本人に責任を負わせるべきだと思うのです。
つまり、授業でテキトーなレポートを書いていたり、試験の点数が足りなかったり、卒論が進まなかったりした場合、ありのままで評価してよいと思うのです。
レポートの内容が単位認定基準に達していなければ単位を出さない、卒論の提出期限に間に合わなければ添削をしない(できない)、など、何でもかんでも救ってあげる必要はないのだと思います。
多くの教員の方は、それが当たり前と感じるかもしれませんが、Fラン大学では救済することが常となっている部分がありますので、どちらかというと初等教育の必要性が強くなってきます。(だからこそ、小学校教員の経験が生きることが多々あります。)
そして、救済してもらったまま社会に出て、ボコボコにたたかれてしまうというのがオチとなってしまうわけです。
学生に責任を負わせないのは教員の責任
いろいろ考えた結果、最終的に行き着く結論としては、「救済して学生に責任を負わせないのは、救済している教員の責任」という考えです。
これまでごちゃごちゃと述べてきましたが、結局は救済して単位を出したり、提出期限に遅れても添削したりしている教員側にも責任があると思うのです。
単位を出さずに落第させたり、卒業不可となったりすることのほうが教員は責任を感じるかもしれませんが、実のところは、救済して、未熟なまま社会に送り出している教員のほうがよっぽど無責任だと思うのです。
ダメなものはダメ、と言える教員が少なくなってきていると感じますが、自戒を込めて、本当に学生のことを考えるのであれば、学生自身に失敗を実感させることが重要なのではないでしょうか。
今回は短い話となりましたが、学生や教員の責任について考えてみました。
もちろん、個人的な感情で不可を出すような理不尽な評価をすべきではありません。
シラバスの成績評価に沿って、適切に判断したのであれば、救済は必要なく、それがのちの学生のためになると信じたいものです。
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