短大教員になるまで(前編)

雑記

今回は私が短大教員になるまでの経緯について書いていきたいと思います。

回顧録のような記事となっていますが、ご興味のある方はご覧ください。

きっかけ

これまでの記事をご覧いただいている方はご存じかと思いますが、私は大学院まで進学したのち、小学校教員となっております。

その大学院では、ほとんど学部生の延長のような生活を送っていたのですが、それでも修士論文執筆に向けて研究に触れる機会は多くなります。

そのような中で、ある先生から「せっかく大学院まで進学したのだから、就職しても1年に1本でも論文を書き続けていたほうが良い」という話をされました。

おそらく、その先生も半分その時の勢いのようなものでお話しをされたのだと思いますが、思い込みの激しい私は小学校教員になってからも、論文執筆をしようと考えていました。

小学校教員時代

小学校教員の仕事は、学校にもよるかとは思いますが、正直激務でした。

私の初任校は研究校でもあり、毎年公開研究会(学外の方向けに授業を公開し、その授業について検討を行う研究会)を行っていたため、研究授業の数が他の学校よりも多く設定されていました。

また、指導室訪問(数年に一度教育委員会の各教科の指導主事が授業を参観し、指導を行う研究会)なども重なり、初年度から通常の授業に加え、授業研究の準備もしなくてはなりませんでした。

そのため、朝は7時前には出勤し、夜は平均して23時頃まで学校にいたかと思います。

しかし、良くも悪くも、私は小学校の現場がどのようなものか知らなかったため、このようなものなのだ、と飲み込むしかなかったのです。

そのような環境の中でも、2年目に入ると流れがつかめてくるため、土日に少しだけ時間がとれるようになりました。

そうすると、大学院時代に言われた「1年に1本の論文執筆」という話を思い出し、学会発表と論文執筆を進めることとしました。

論文執筆に関しては、先述したように研究校に赴任していたため、その研究を「実践研究」として学会発表して、論文を書いていきました。

母校の公募

そのような中、母校の大学から新たな教員採用の公募がでるという話を恩師から聞くこととなりました。

恩師とは卒業後も折に触れて連絡を取っていたため、その中で聞いた話でした。

昔とは違い、今は公平な採用が求められているため、情報はもらえても、採用前提の話などではありませんでした。

それからは、大学教員の募集でもっとも有名な「jrecin」というサイトから公募情報がでるのを毎日チェックし、母校の公募情報が出たとたんに応募することにしました。

そして、公募から2週間ほどたったある日、母校から1次試験である書類審査を通過した旨の通知を受けました。

大学教員の採用の場合、2次試験である面接の際にはぐっと人数を絞るため、2次に呼ばれる=採用が近づくことを意味します。

そこから、面接に向けて自分なりの想定問答を繰り返し、2次試験へと臨みました。

2次試験は恩師を含めた顔なじみの先生方が揃っており、緊張しながらも和やかに面接を終えることができました。

自分なりの考えも伝えることができたため、手ごたえを感じていたのも事実です。

無事に2次試験の面接も終わり、あとは合格か不合格か、最終通知を待つだけでした。

青天の霹靂

2次試験である面接終了後、内々に学科としてはあなたを推すから、次年度から大学に来られるよう、論文執筆や学会への参加など、少しでも業績を積み上げておいてほしいというお話をいただきました。

一般企業でいう内々定のようなものをいただけたのだと認識していました。

しかし、結果的に採用は見送られることとなりました。

その理由としては、大学の最高決議機関である「教授会」において私の採用が否決されたからです。

通常、学科からの推薦があったのち、教員選考委員会において推薦者についての説明が行われます。

その後、教員選考委員会において採決がとられ、教員選考委員会で推薦者を決定します。

その後、最終決定である教授会で最終諮問が行われるという流れになります。

私は大学院を卒業して1年ちょっとしかたっておらず、業績も少なかったため、適任ではないと判断されたようでした。

私は勝手ながら、ここまで来たら母校に戻れるものと思っていたため、否決の連絡は青天の霹靂でした。

思った以上に長くなってしまったため、2部に分けて書きたいと思います。

すみませんが、後編をお楽しみに。

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