今回は教員のエゴについてお話ししたいと思います。
「いい先生」
小学校教員だった頃、私は「こども達のために」という想いで働いていました。
こども達が興味をもってくれそうな授業の構想や、丸つけ、作品へのコメント、掲示、写真の印刷などに加え、暑中見舞い、年賀状など、長期休暇の間もこども達へのアクションは欠かしませんでした。
こども達の反応も悪くなく、保護者の皆さんも新卒の若造に比較的理解を示してくださっていたと思います。
学級運営としても、大きな問題が起こることもなく、穏やかな日々を過ごすことができていました。
そのため、自分を「いい先生」と錯覚してしまうことがありました。
「いい先生」はなろうとするものではない
しかし、自分がいい先生だと錯覚する度、こども達は絶妙のタイミングでブレーキを踏んでくれました。
そのブレーキとは、自分のことを「好きではない、いい先生とは思っていない」こども達のことです。
当たり前ですが、こども達は様々です。
そのため、クラス全員が先生のことをよく思っているということは、ほぼあり得ないと私は思っています。
というか、それが自然であり、全員が先生のことを好き、というクラスは少し怖さを覚えます。
そのようなこども達は、私から自然と距離をとろうとしましたので、その度に自分は「いい先生」ではないと自戒することができました。
そもそも、何をもって「いい先生」とするかという問題もありますが、当時の私は「子どもから好かれる先生=いい先生」と思っていました。
しかし、「いい先生」というものは、こども達が判断するものであり、教員がなろうとするものではないと思うのです。
「こども達のために」と思っていたことが、こども達にとっては「ため」になっておらず、ただただ教員の自己満足、エゴであることが多々あります。
ただ、「こども達のために」という想い、考えは大切だと思っています。
そのため、日々、これはこども達のためになっているのか、と自問自答する必要があるのだと思います。
こども達のためになっていれば、勝手にこども達が評価してくれますし、ためになっていないこともしっかりと評価してくれます。
ただ淡々と、こども達のためになることを考え、実行し、改善していくことが大切なのだと思います。
本当にこども達のためになっているのか、それとも、教員のエゴとなっているのか、はたして、この記事を読んでくださっている教育関係者の方はどちらでしょうか?
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