今回は自戒を込めて、教員の特徴である「話が長い」ということについてお話ししたいと思います。
「あれ?何を聞かれていたんだっけ?」
私が自分の話が長いと自覚したのは大学4年生の時でした。
「つまり、何がいいたかったんだ?」と、自分でも何を回答しているのか分からなくなっていましたので、相手にも自分の考えが伝わるわけがありません。
その傾向はしばらく続き、本番の面接でも、回答をしながら「あれ?何を聞かれていたんだ?何を言いたかったんだ?」と自問することが多々ありました。
しかしながら、何とか小学校の教員採用試験を突破し、教員の世界に入ってみると、周りの先生方は基本的に話が長い。
飲み会になるとさらに長い。
大学教員になるとさらに長い。
ああ、話が長いのは自分だけではないんだな、と少し安心すると同時に、これは職業病なのか?と疑うようになりました。
「話が長い」ことの弊害
では、話が長いことの弊害は何なのでしょうか。
私が考える話が長いことの弊害第1位は、「人の時間を奪う」ことだと思います。
話が長い人は基本的に自分の知識を伝えたい、教えてあげたい、という思考から話が長くなることが多いのかと思いますが、相手がその話を聞きたがっているのかというと、必ずしもそうではありません。
講演会のように、その人の話を聞きに来ている場合であれば、話を聞くことが目的となっていますので、問題ありません。
ただ、そのような特殊な場でない限り、「話が長い=相手の時間を奪う」という構図が残念ながらほとんどの場合成立してしまいます。
しかし、話が長い人は、そのような自覚さえもありません。
むしろ、自分の知識を披露したこと、教えてあげられたことに満足感を得て、また教えてあげようという考えに至ります。
上記で紹介したように、私ほど卑屈な考えになる必要はないかもしれませんが、教員は「相手が自分との会話を求めているのかどうか」ということを、少しは意識する必要があるのではないかと感じます。
アクティブラーニング
教員は職業柄「教える」ことが中心ですので、話が長くなってしまうのも仕方がないのですが、できるだけ授業でも話だけにならないようにしよう、という流れになっています。
その代表的な取り組みの一つとして、「アクティブラーニング」が挙げられます。
教員であれば1度は聞いたことがある教授法だと思いますが、簡単に説明すると、能動的、主体的な学習のことを指します。具体的には、ディスカッションやグループワーク、ディベートなどが挙げられますが、つまりは、子ども達が自ら学びに参加できるような授業にしよう、というものです。
この学び方は、当初大学向けに考案されていたもので、小学校から高校段階まででは、必ずしも必要ではないという見方もありました。
しかし、2020年から全面実施となった学習指導要領にも明記されており、少なくとも2030年度前後まではアクティブラーニングが現場でも推奨されることとなりました。
そのため、現在の現場では、教員の話は最低限のものとなり、学習者同士の会話が中心となっている、、、はずです。
まとまりませんが、とどのつまり、教員は相手のことを考えた会話をする必要があるということです。
相手が子どもであっても、同僚であっても、保護者であっても、自分の話が必要とされているのか、簡潔に回答できているかどうか、ということは、時々自戒する必要があると思うのです。
特に、年齢を重ねると知識も増え、教えられることが増えてきます。そうすると、蛇足を加えることもどんどん増えていき、相手が本当に必要としていることが伝わらないとどころか、相手の時間までも奪うこととなります。
自分の話に満足するのではなく、相手が満足するような話、会話を心がけたいものです。
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