追究しない学生

雑記

今回は追究しない学生についてお話ししたいと思います。

最低限の取り組み

私の担当する科目を受けている学生で、最近やたらと目につくのが「最低限の取り組みしかしない」という学生です。

例えば、グループワークである課題を課したとしましょう。
制限時間は5分で、グループとしての結論を出しなさいというものです。

5分という時間の中で早く結論が出るグループ、時間内に結論がまとまらないグループなど、グループによって様々ですが、時間いっぱい考えて、より良い結論にたどり着いてほしいというのが個人的な願望です。

結論がまとまらないグループは仕方がないですが、早く結論が出たグループにおいては、概ね、雑談をしていることがほとんどです。

ただ、私が勤務している大学の学生たちは違います。

結論が早く出たら、各々ボーっとしているか、スマートフォンをいじっているかなど、グループで話すことを止めるのです。

そして、そのようなグループの結論が優れているかというとそうではありません。
ありきたりな結論となっていることがほとんどです。

雑談が良いというわけではありませんが、雑談の中から新しいアイデアが浮かぶことはあっても、話すことを止めてしまえば、それ以上の結論は100%出てこなくなるわけです。

ひとたび結論が出れば、それ以上の追究をしない、という学生が非常に多くなったなと感じます。
(私の勤務する大学だけかもしれませんが・・・)

単位が取れればそれでよい

最低限の取り組みしかしませんので、単位もとれればそれでよいのです。

良い評価を求めている学生ももちろんいますが、先ほどお話しした最低限の取り組みしかしない学生などは、最低ランクでも構わないから、単位を落とさなければそれでよい、という考えです。

大学の成績が直接就職に関わるわけではありませんが、学ぶ上ではより良い評価を追求してほしいというのが私の願いですが、学生たちには卒業までに伝わりそうもありません。

大学は追究するところ

ここまで少しフランクに書いてきましたが、上記のような状況は非常にまずいと感じています。

私の授業運営が拙いのはもちろんなのですが、学生自身も追究心を欠片も持っていないことがあります。

個人的な考えですが、大学は追究する場所であると考えています。

新しい知識を学ぶ場所でもありますが、本質的には物事を追究し、考え抜く場所であると思っています。

その最たる例が「卒業研究」だと思うのです。

卒業研究は基本的に1年間、もしくは3年ゼミから継続している場合は2年間かけて行うことが多いかと思います。

あるテーマに対してそれほど時間をかけて考えたり、まとめたりすることは人生の中でもほとんどないのではないでしょうか。

個人によって論文の質はバラバラですが、年単位で論文を作成するというのは大学という場所を卒業するために必要なことだと感じます。

だからこそ、現代にいたるまで、卒業論文という科目がどの大学でも開講されてきたのだと思います。

最近では卒業論文を書かない大学も増えてきていますが、追究させるための貴重な機会と考えると、個人的には今後も残していきたい科目の一つです。

追い求めることの大切さを感じてほしい

高校までの学校生活においても、理科系の科目では実験の結果を予想したり、話し合ったりする機会があると思います。

そのようなときに、まともに向き合うことができず、答えだけわかればよい、という姿勢だと、先述した大学生へとつながってしまう気がしています。

学業だけでなくともよいと思います。
運動や音楽、化粧などでも、自分が打ち込めることがあれば、それを追究すればよいのです。

ただ、大学に通っているのであれば、授業でも追究する姿勢を見せてほしい、という願望が湧き起こってしまいます。。

ルーペを持つ手

今回は追究しない学生についてお話ししました。

大学のレベルや受講人数、教員の運営など、様々な要素が関わってきますが、追究する経験というものは人生のどこかで経験しておきたいものです。

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