善意の強要

雑記

今回は前々から感じることのあった「善意」についてお話ししようと思います。

善意

善意という言葉について辞書を引いてみると、「よい心」「他人のためを思う親切心」といった説明があります。

総じて、「他人のために自らが良いと思って行う行為」といえるのではないかと思います。

お勧め

時折、私は周りの方からいろんなものを勧められる場面に出くわすことがあります。

それは食べ物であったり、道具であったり、仕事の進め方であったりと、いろいろなケースがあります。特にお菓子などを勧められるケースが多いかもしれません。

そして、そのお勧めを実行しなかったとき、時々ではありますが、とても悲しい顔をされることがあります。

自分が良いと思っていることを共感してもらえなかったのですから、悲しい気持ちになるのはわかります。

しかし、自分の良いと思っていることが、他人も良いと思うかどうかは別の話だと思うのです。

そして、悲しい表情をされると、断った私が悪いことをしたような気持ちになります。

これは人によって感じ方が変わるのかもしれませんが、少なくとも、私は「悪いことをしたな」と感じてしまいます。

そのため、正直自分にとっては良いと思えないような場合でも、相手に合わせて共感したことがあるのも事実です。

善意の強要

冒頭でも説明したように、善意とは他人を思いやる親切心ですから、お勧めする本人に悪気はありません。

純粋な善意でお勧めをしてくれています。

そのため、その善意が伝わらなかったとき、悲しい感情が湧き上がってくるのでしょう。

ただ、これは一歩間違えると「善意の強要」になると私は考えています。

そして、お勧めした人はお勧めを断られた被害者となり、断ったりお勧めを共感しなかった人は加害者と映ることがあります。

美味しいとお勧めされた苺だけど、元々苺が食べられない人がいたとしましょう。

食べられないため、断りたいのですが、ぜひ食べて、というお勧めを断れば悲しい顔をされます。
そのため、好きではない苺を我慢して食べるしかない。

このような状況に陥ることが、少なくとも私はあります。

選択肢がほしい

私の感じ方が歪曲しているのかもしれませんが、世の中にはこのように感じる人間がいるということも知ってほしいのです。

では、どうすればよいのかというと、「選択肢」をもらえると非常に助かります。

お勧めをしてもらうこと自体に嫌悪感や拒否感はありませんので、その場でお菓子を食べることを勧めたり、「やってみた?」と後々聞くことを控えていただけると、被害者感が薄れます。

そして、「私はいいと思うんだけど、もし気になる場合はどうぞ」くらいのスタンスでお勧めしてもらえるとお勧めを実行しなかったとしても、罪悪感がありません。

断ってもらってもいいし、本当にいいと思ったら実行する、食べてみる。

このように、お勧めをされた側に選択肢をくださると、私のような小心者は非常にありがたいです。

今回は私の感じ方を話題にさせていただきましたが、この記事を読んでいただいた方への、考え方の強要にならないことを祈っております。

併せて、人に何かをすることが好き、してあげることが好き、教えるのが好き、という教員の方には、ご一読いただけることを祈っております。

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