今回は卒論指導についてお話ししたいと思います。
卒論指導の時期
所属先にもよりますが、今年も卒論指導が佳境を迎えております。
近年は卒論の提出がない大学や卒業研究が卒業必修となっていない大学も増えておりますので、大学教員のみんながみんな卒論指導を行うというわけではないと思いますが、私の所属する大学は漏れることなく卒業研究が必修科目として存在しております。
後期が始まった当初は「まだまだ大丈夫」と、学生も私も考えているのですが、11月ごろから先行きが見え始め、提出日が逆算できるようになると一気に焦りが押し寄せてきます。
1割~2割の学生はきちんと計画通りに進めるため、そのような学生がゼミの中に一人でもいてくれると助かるのですが、毎年そのような学生がゼミに来るかといえば、そうではありません。
もう1割~2割の学生は提出日までの計画を立てることができないため、教員の焦りとは裏腹に、全く焦ることがありません。その心臓が欲しいくらいです。
そして、残りの6割~8割の学生は、「まずい、まずい」といいながらも、なかなか作業を進めることができず、同級生と顔を合わせた際には毎回進捗状況を確認しあう、といった具合です。
学生のことだから、と割り切っていしまえばそこまで精神を病むことはないのかもしれませんが、ゼミとして受け持っている以上、何とかして書かせなければならない、という気になってしまいます。
ただ、毎年卒論の指導をしていて、毎回自分に言い聞かせることがあります。
それは「卒論は誰の論文だ?」ということです。
卒論はあくまで学生の論文
卒論を指導し始めた当初は、毎回の指導にも熱が入っており、体裁はもちろんのこと、内容にも深く関わっていました。
そのため、自分の時間は大幅に削ることとなり、正直大変ではありましたが、非常に質の高い卒論を提出させることができました(自分で言うのもなんですが・・・)。
ただ、毎年ゼミの人数も増え、指導が大変になっていく中、ふと「これは誰の論文なんだろう」という考えが浮かびました。
指導が大変でしたので、自分を守るために、楽な方向にいこうという思考が働いたのかもしれません。
しかし、改めて考えてみると、私は関わりすぎていました。
自分のものさしで卒論の指導をしていたため、学会誌や最低でも紀要レベルの論文に近づけようと指導をしていたのです。
そのため、学生が考えてきた文章でありながらも、最終的には私の書いた文章に変わっていき、内容についても学生が自ら考えた考察などは「考察のほんの一部」になってしまっていました。
そうなると、もう学生の論文ではなくなってしまいます。
このようなことから、現在では、最低限の体裁を整えるとともに、学生の言い回しや文章はそのままに、学生それぞれの色を出した論文指導をするよう心がけています。
正直なところ、指導もだいぶ楽に感じるようになりました。ただ、保身のために書いておくと、指導を放棄したわけではありません。これまでがちがちに指導してきた人間が急にスタイルを変えられるわけもなく、気を抜くとガミガミ指導してしまうこともあります。そのため、時々は「誰の論文を書いているのか」と自分に言い聞かせて、学生の文章と指導のバランスを保とうと努力している最中です。
指導スタイルは千差万別
卒論の指導スタイルというのは、本当に担当教員によると思います。
私のようにガミガミいうタイプもいれば、ほとんど学生に進め方を任せるタイプもいます。
また、私のタイプに近いのですが、文章を修正しすぎるがあまり、学生からすると、「一度出してしまえば、あとは先生が全部修正してくれる」というタイプの教員もいます。
分野によっても指導の仕方も変わりますので、本当に指導の仕方は千差万別だと思います。
ただ、卒論は「文章を書く」ということにフォーカスされがちですが、本質は「事象の追求」であり「研究」であると思いますので、考えさせることを中心に据えなければならないと思っています。
考えたことを表現するために「論文」という文章化作業があるのだと思います。
今回は卒論指導についてお話ししました。
卒論がないといいなあと考えたこともありますが、必修でないにしろ、「卒業研究」といった科目や、それに似た科目を担当するのであれば、結局同じことを学生にさせてしまいそうです。
卒業研究自体は苦ではなく、論文指導もあまり苦ではないことを考えると、なんだかんだで、研究というものが好きなのかもしれません。
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