大学教員の仕事「卒論指導」

大学教員の仕事

今回は卒論指導についてお話ししたいと思います。

卒業論文

卒論指導は小学校教員にはもちろんなく、大学教員の授業の中でも1年(ゼミ配属から考えると2〜3年)を通して行う授業であり、最も重い授業の一つだと考えています。

ちなみに、4年制大学では芸術系、音楽系を除いて、多くの場合が「論文」を書きますが、多くの短大では「卒業発表会」が主体となっています。

特に、幼児教育系の短大では、論文は一応書くものの報告程度のものであり、発表会に力を入れている短大がほとんどです。

4年制大学でも卒論発表会はありますが、短大の発表会は論文発表会とは少し違い、パワーポイントでの発表もありますが、劇、ミュージカルなどの発表もあるため、「論文」発表会とはまた毛色の違ったものとなります。

おそらく、ホームページなどを確認すると、卒業発表会の様子などが見れるのではないかと思いますので、興味のある方は確認してみてください。

さて、話がそれましたが、卒論にはどのような意義があるのでしょうか。

ある先生は「一つの物事に一年という時間をかけて取り組み、様々な知見とともに満足感を得ること」が重要だとお話しされていました。

確かに、私も前半部分は同意します。

後半部分について、私は「満足感」では「飢え」だと考えます。

卒論というのは、一年、もしくはそれ以上の時間をかけて、あるテーマについて探求します。
そして、その過程において、新しい知見や視点、考え方などが身についていきます。

一年以上の時間をかけますので、きちんと取り組むことができていれば、終わった際には満足感に浸ることができるでしょう。

しかし、私は満足感を得るよりも、「なぜ?」という疑問をもち、学問に対する「飢え」を感じてほしいと思っています。

調べれば調べるほど、探究すればするほどに疑問が出てきて、解決するたびに更なる疑問にぶつかる。
そういう経験をする場が「卒論」だと考えます。

そのためには、教員の指導の仕方も重要だと思っています。

私もまだまだ指導については未熟ですが、学生の「視点」を増やせるような指導を心がけています。

あるテーマについて、全てを教えてしまったら、それは指導教員の論文です。
そのため、学生自身が考え、真理に近づかなければなりません。

例えば、ある島に流れ着いてしまった人がいたとしましょう。

その人は道具も持っていなければ、島の環境について何も知りません。

そこで、先に住んでいる住人がいろいろなことを教えてくれます。

ただし、島には森がある、島の周りにはこのような魚が泳いでいる、この島はこういう位置にある、など、最低限の情報です。

そこで、その人は自分が生き抜くためにはどうすれば良いのか考える必要があります。

森があるということは、果物があるのか?

魚がいるということは、釣って食べることはできるのか?釣り方は?

島の位置から考えると、潮の流れはどうなっている?

など、住人からもらった情報を頼りに生き抜く術を考える必要があります。

わかりづらい例で申し訳ないのですが、ある島に流れ着いたのは学生、島の住人は教員という構図になります。

教員は最低限のものの見方や考え方、実験の方法などを教え、学生自身が卒論のテーマに対して考察をすることが必要です。

そして、考察をしていくうちに出てくるわからないこと、疑問などを解決しようとする「探究心」こそが、卒論を通して身につけてほしい「飢え」といえます。

卒論で何を学んでほしいか、というのは教員それぞれ違うと思います。

今回は私個人の考え方になりますが、学問への「飢え」こそが大学での学修の本質ではないかと考えています。

次年度もたくさんの「飢え」に出会えるよう、導いてあげたいものです。

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