今回は「奈良教育大付属小で起こった不適切授業」について所感をお話ししたいと思います。
不適切な授業
先日、以下のような記事が報道されました。
国立大学付属小学校において、不適切な授業が行われていたという報道です。
報道では、授業時間が不足していたことや、学習指導要領に沿っていなかったことなどが指摘されています。
確認しておきますが、報道によると、学習指導要領に定められている各単元の授業時間数が足りていなかったということであり、教科としての授業数が足りていなかったということではなさそうです。
この報道には賛否両論あり、報道のされ方としては否定的にされていることが多いのかなと感じます。
完全悪ではない
私個人の感じ方をお話しすると、この学校の先生方が行っていたことは完全悪ではないと感じます。
つまり、教員の怠慢や、個人的な恣意から起こったことではなく、「子ども達の成長」を目的として授業を行っていたことに変わりはないのではないかと感じるのです。
もちろん、学校としてのカリキュラム自体が指摘されていますので、何もわからずに授業を行っていた教員もいるかと思いますが、悪意をもって行っていたことではないと思っています。
そして、論争の焦点となっているのが「国立大学付属学校」という立場です。
基本的に大学の付属校という立場にある学校は、大学と連携しつつ、様々な研究を行うことが求められます。
そのため、毎年、研究授業や公開研究会を行っていることがほとんどであり、大学教員の研究においても、被検者として子ども達に参加してもらうことも珍しくはありません。
このような背景がある故に、良くも悪くも、他の学校とは異なる取り組みを行っているという実態があります。
今回のケースは精査してみないことにはわかりませんが、良い悪いは別として、現代に必要、不必要な学習内容を検討した結果、毛筆が筆ペンに変わったり、君が代の指導が行われなかったりしたのではないかと推察します。
子ども達の実態を調査したい
既に起こってしまったことについては、あれこれ言っても時間は返ってきませんので、今後について考えてみたいと思います。
端くれながらも研究に携わっているからか、私の中では「子ども達の実態はどうなっているのだろうか」という疑問が湧いてきました。
つまり、当該校と他の公立校との学力やストレスの有無、生活習慣など、子ども達の実態を比較してみたいと思ったわけです。
学習指導要領沿った授業が行われておらず、必要な単元の授業時間数が足りていなかったわけですが、その結果、子ども達の実態にはどのような差が出ているのでしょうか。
もちろん、筆の使い方や、人の心を考えるといった道徳的な点などは簡単に比較することができませんので、比較できる部分は限られているとは思います。
ただ、学習指導要領から外れた場合、どうなるのか、ということを検証する良いチャンスに変えられるのではないかと思うわけです。
当たり前ですが、文科省はそんな調査をするわけがありませんし、むしろ調査には否定的な姿勢を示すでしょう。
(学習指導要領に沿っていなかったにもかかわらず、子どもに良い結果が見られたということが判明した場合、学習指導要領の存在意義に疑問が生じる可能性があるからです。)
しかし、現在の「当たり前」を疑う場合には、今回のような出来事を処罰というマイナスな面でとらえるだけでなく、プラスの面でもとらえる必要があると考えます。
ペーパーレスや判子など、日本はこれまでの当たり前を壊す際、強烈な拒否反応を起こすことが多々ありますが、何かを見直すためには今回のような出来事を「きっかけ」に変える必要があると感じます。
今回は「奈良教育大付属小で起こった不適切授業」について所感をお話ししました。
学年として必要な授業時間数が減らされていたのであれば問題だと思いますが、1年間の授業時間数を満たしており、特定の単元だけ授業時間数が減らされていたのであれば、減らされた時間をどのような時間に充てていたのかが気になるところです。
時代によって学校の在り方や学習の在り方というのは変わっていくものだと思いますが、これからの学習指導要領改訂や学習指導要領そのものの在り方について考える良いきっかけにしたいと感じた次第です。
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