「自由」という名の沼

雑記

今日は「自由」についてお話ししたいと思います。

小学校教員と大学教員の自由度

私は小学校教員から短大教員、大学教員と転職を繰り返してきましたが、職業の自由度としては

「大学教員>短大教員>>>>>>>>>小学校教員」

という図式になると感じています。

これだけ見ると「やっぱり大学教員は自由度が高くて気楽な仕事だ」「大学教員って自分な好きなことができる」という印象を持たれるかもしれませんが、私は一種の恐怖を抱くときがあります。

「自由」という名の泥沼

確かに、小学校教員時代が最も時間に追われており、土日も含めてどこかに遊びに行ったり、旅行に行ったりするということは長期休業中を除いてほとんどありませんでした。

というか、できませんでした。

私の仕事の進め方が良くなかったのだと思いますが、一番忙しかったのは事実です。

短大と大学は基本的に同じ形式で1年の流れが進みますので、自由度も小学校教員と比べるとはるかに高くなります。

ただ、短大は就業時間が決まっていたのですが、現在の大学は基本的に裁量労働制を採用しているため、より時間の自由度が高いのは大学だと感じています。

大学に着任してから、授業や会議の時間を除くと自分の好きにしていい時間が圧倒的に増えました。

そのため、いろんな面でゆとりが持てるようになったのは事実です。

しかし、このぬるま湯につかってしまうと、「自分はこの期間何をしていたのだろう」と考えることが出てきました。

自由である時間が増えれば増えるほど、それに比例して自分が負う責任も増えていきます。

そのため、最低限の仕事さえしていれば、その他の時間は何もしなくて良いのですが、ただ時間を食いつぶし、ダラダラと過ごしてしまう自分に危機感を覚えるようになりました。

時間を自由に使えるということは、自分が動き出さなければ、仕事や研究は進みません。

そうなると、当たり前ではありますが、自分の成長も止まってしまいます。

新しい知見をインプット、アウトプットする機会がなくなってしまうのです。

また別の記事で書こうかと思っていますが、大学教員には「任期あり」の雇用と「任期なし」の雇用があります。

私はありがたいことに「任期なし」の雇用をしていただいているため、ダラダラしようと思えばいくらでもダラダラすることができ、最低限の仕事さえしていれば、首を切られることはありません。

ただ、それが尚更危機感を加速させます。

「自由」は人によって価値を変える

上記のように感じるのは私の性格もあるのかもしれませんが、自由な時間は人によって価値を変えると感じます。

水のように、人によっては飲み水やシャワーとして便利に使うことのできる一方で、川や海などでは時として命を奪うこともあります。

ただ、それは全てその人自身の「水の使い方」次第であって、水はいつも静観しています。

自由な時間も同じで、時間の使い方次第で人はどこまでも成長できる一方、堕落した生活を送ることもできます。

それも「時間の使い方」次第です。

哲学的な話になってしまったかもしれませんが、自由という時間を糧にできるか沼にするかは自分次第だということをつくづく感じている今日この頃です。

この記事を読まれた大学教員の方からは、「研究していればそんな暇はない」とお叱りを受けそうですが、正直な感想を記事にしてみました。

この記事を自らの戒めとして研究を進め、社会に還元していきたいと思います。

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